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東千茅

【連載】里山八景生者の戯れ 第1回

12万のチェーンソー

12万のチェーンソーが欲しい。去年からずっとそう思っている。にもかかわらず買えていないのは、金にならないことばかりに注力して金欠状態が一向に改善しないからだ。ちなみに、ドイツのSTIHL(スチール)とスウェーデンのHusqvarna(ハスクバーナ)が世界二大チェーンソーメーカーであり、わたしが熱烈に欲しているのはSTIHLのMS241C-Mである。最近、どんな本よりもSTIHLのカタログが一番の愛読書になっているほどだ。

わたしは、2015年に大阪から奈良県宇陀市に移り住んで、里山生活をおくっている者である。賃労働をするのは多くて週4日で、あとは田んぼや畠をしたり鶏の相手をしたりして過ごしている。30才にしてこんな生活をしているので、社会的にいえばわたしは落伍者に違いない。金がないなら、せめて集中的に賃労働をしてそれでチェーンソー買えばいいのではないかと思う向きもあるだろう。が、事はそう単純ではない。社会からは堕落したものの、わたしは里山をしているのであって、その中で多くの仕事をこなさなければならず(里山の様々な仕事を総称して里山制作と呼んでいる)、賃労働ばかりをしているわけにもいかないのである。

そもそも里山とは、人の手が入りつつ成る山野を指す。つまり、人里近くの人間が関わる山だけではなく、その周辺の田畠や畦畔や沢や用水路や溜池等をも含む。だから、田んぼや畠をするだけ、鶏を飼うだけ、あるいは山で木を伐るだけでは里山制作とはいえない。様々な環境を包括的に稼働させるために、里山において人は多くの技術を要求され、多くの仕事を相互のつながりの中でこなさなければならない。しかも里山に完成形などない。里山は、多種が入り乱れ、つねに動きつづける化け物じみたものであり、したがって里山を制作するとは、こちらもつねに動き、多くの種、多くの環境に不断に働きかけ、また応答しつづけることである。要するに、里山にはすべきことが山ほどあるということだ。

こういったことを『つち式』や『人類堆肥化計画』という本に書いて出版している。それもあって傍から見れば、わたしの里山生活とか諸々が運良く恵まれた格好ですんなりうまくいっているように映るかもしれない。自分でもそう感じる瞬間はないではないが、いま里山に手を出すからには、これくらいうまくいって、というかうまくいかせて当然だと思っている。これでも全然色々間に合っていない。器用だの、体力があるだの、人に恵まれているだの、本を出しただの、それが売れただの(売れてへんわ)、そんなことは当たり前なのだ。あとで述べるが、わたしは二百年の里山を相手にしているのである。こんなもので全然足りるわけがない。たかが12万ごときのチェーンソーが手元になくてどうする。

もっとも、チェーンソーは12万も出さなくても買える。チェーンソーにはカジュアル機とプロ機があって、見た目にさほど違いはなくともパーツの強度や性能の差は段違いである。カジュアル機であれば安いものだとわずか二万円ほどのもあるが、カジュアル機は借家にもともとあったもので間に合っている。ではなぜプロ機が欲しいのかというと、2021年の年明けから、満を持して田畠の周りのスギヒノキ林を伐りはじめたからだ。今後本格的に木を伐っていくにあたって、ぜひとも自分のプロ機を持ちたい。

しかし、木を伐りはじめたからこそ、金欠状態に拍車がかかってもいる。山に手を出すと大変なのだ。田んぼや畠とは訳がちがう。草が相手であれば、自然農的にやっていれば大層な道具はほとんど使わなくて済む。それが、草よりも自分よりも遥かに大きい木が相手となるとチェーンソー以外にも様々な道具が要り、しかも割と高価なのだ。くわえて現在、木は売れない。ましてほとんど手入れされてこなかった人工林の木など、たとえ売れたとしても二束三文である。要するにわたしは現在、金はかかるが金にならない仕事に着手してしまったということである。

 どうしてこうなったかというと、これまでは力及ばず田んぼや畠だけしかできていなかったものの、もっと広く、里山に関わりたかったからに他ならない。それに、そもそも田畠は田畠だけで成るのではなく、周囲の山林とも密接な関係にある。わたしは田畠をやっている時もつねに里山という広がりが念頭にあったし、知識や技能が身に付いてきた今、周りの山にも手を伸ばすのはごく自然な流れではあった。そしてこの山というのが問題なのである。全国の多くの山の例に漏れず、戦後に大量に植林されたのち、木材価格の下落ゆえに管理もされず荒れ果てたわが山は、真っ暗で陽光が地表に届かず、他の草木はほぼ生えていない。いきおい他の生き物も少ない。そんな山のまま麓で田畠をするのは不十分だし、何よりそんな山ではおもしろくない。そんなわけで、密植放置されたスギヒノキ人工林を伐っていって、二百年かけてさまざまな樹種が混淆する雑木林を育てる計画「里山二二二〇」を開始したのである。

木を伐ること自体は、2021年から主に公園管理の仕事に呼んでもらって練習してきた。伐採仕事に行きだしてから、ほどなくしてわたしは魅力に憑りつかれた。自分よりも何倍も高く重い存在を、力の塊みたいなチェーンソーで伐倒するのである。昂らないわけがない。そして今、ようやく自分のところの木を伐りはじめた。どの木を伐るか選び、倒す方向・方法を考え、伐採し、枝を片付け、玉切りし、集材し、皮を剥き、適宜利用する。伐ったスギヒノキをどうするか、伐ったあとは他のどんな木が生えてくるか、彼らとどう付き合っていくか、等々、切れ目なく続いていく作業と思考にわたしは惑溺している。

木を伐るために生きてきたのかもしれない、などと思うほどだ。ずっとこれを待っていたという気がする。30年生きてきてやっとだ。チェーンソーの爆音を響かせながら切り込み、一種荘厳な音と動きと衝撃とともに木が倒れる。伐木は、要するに派手な殺害である。この犯行は、暴力の行使にともなう背徳感と爽快感をもたらしてくれる。たしかに、今までも草刈りでエンジン式の刈払機を使ってきたし、その殺傷行為をわたしは愉しみながら繰り返してきた。しかし、チェーンソーは刈払機と比べて刃が自分に近く、対象物の大きさも草と木では比べ物にならないわけで、より危険な分だけ愉しみも一入なのだ。

ちなみに先日、映画『WOOD JOB!』を観返した。作中、杣人見習い役の染谷将太が、100年生の木が伐倒される様を目の当たりにして畏怖する場面がある。とてもよくわかる。木を倒す瞬間のあの強烈な快感は、ちょっと、もう、比類を絶している。ついでにいえば、この時染谷将太が持っているチェーンソーこそ、まさにわたしが欲している機種だ。また、林業の現場ではロープをよく使用し、もやい結びというきわめて重要な結び方があるのだが、それについても本作で描かれていた。自分で木を伐るようになってからこういった林業関連の映像を観ると、その苦労やおもしろさがよくわかって愉しい。

このように魅力満載の伐木だが、狙い通りの方向に倒すには技術が要るし、倒した後も集材し利用するにはそれなりの道具や機械が要る。現場で先輩たちに教わりつつ訓練しながら、自分の山林ではこういうふうにしようと考えてきた。はじめにヘルメットと防護ズボン、自分の山をやりだすようになってからは、木を引き倒し集めるためのロープとそれを引くプラロック、合わせて滑車も購入した。そしてもちろん、チェーンソーを動かすには燃料とチェンオイルも必要だ。チェーンソーを掃除するために小型のコンプレッサーも買ったし、その他細々した道具やチェーンソーの教本も揃えた。また今後、木を運び出し輸送するための林内作業車や軽トラも入手しなければならなくなるだろう。社会の末端で貧乏暮らしをしている身には大きな出費だ。

しかしこれも、木を伐ることを生活に組み込むためにはやむをえない。本を書いたのも、この連載の仕事を受けたのも、物書きとして生きていくためでは全然ない。社会的承認など、それによって稼げる金を里山に注ぎ込む手段にすぎない。わたしの人生の全部は里山を愉しみ、里山を富ますためにある。

——ということで、以上に述べてきた山の問題は全国的でもあり、それだけ急を要する事態でもあるのだから、人間社会は早くわたしに12万のチェーンソーを与えたほうがいい。

棍棒っていいよな

現在、木や山をとりまく状況には問題が山積しているから、そういった話題においてはどうしても深刻な語り口になりがちだ。しかし、つねに深刻に構えるのは芸がないから、わたしは普段もっと気軽に構えている。気軽すぎるくらいだ。

その証拠に、最近仕事のない雨の日などは、棍棒作りにハマっている。棍棒とは、ゲームやフィクションなどでゴブリンがよく持っているアレであるが、ゴブリンとセットだからといって棍棒まで空想上のものではない。少々野蛮で雑魚い架空のキャラクターの武器にとどまらず、歴とした道具である。木槌といってもいいが、わたしはより野蛮な響きが好きなので棍棒と呼称している。

イメージと実物に大差はない。早い話が棍棒とは、何かや誰かを叩き打つための、ある程度の太さの木の棒に持ち手を作ったものである。これほど単純明朗な道具を我々人類が用いてこなかったはずはない。我々は太古から棍棒をブンブン振り回してきたはずである。もし往時に比べ現代人の棍棒使用率が下がっているとすれば——いや、間違いなく下がっているだろうが、文明とか近代化などといったものは高が知れていると言わねばならない。この愉快痛快な力=悦びを捨て去ることは、進歩どころか退歩もいいところである。たしかに棍棒は原始的な道具であるけれども、だからどうしたというのだ。棍棒は原始にして不易であり、古くなりようがない。実際、棍棒を前にすると手に取りたくなり、ひとたび握るや自分の中の暴力が率直に触発される。よく「銃を持つと撃ちたくなる」と言うが、それと似たような衝動かもしれない。形状と重量が力をわかりやすく表出しており、その力が人間の身体を否応なく動かしてしまうのだろう。たとえ現在、どんなに高性能の機械的武器や心理を巧妙に刺激するゲームが開発されていようが、それもこれも元をたどれば我々の祖先が謎の黒い石柱に触れて棍棒を振り回しはじめたところから始まったはずだし、このいとも単純にして完成している棒は、人類が二足歩行の生活をつづけるかぎり、いつでもその手に、ごく自然に、吸い付くように納まるはずである。

棍棒は里山生活において必須の道具でもある。——必須は言い過ぎだが、たとえば杭を打ったり、木や竹を割る際に斧を叩いたりするのにうってつけだ。もっとも、ものを打つなら、重くて基本的に両手で使う掛矢もある。しかし、片手しか使えない時や掛矢では大きすぎる時には棍棒の出番である。作っておいて損はない。

 とはいえ、棍棒は単なる道具を超え出る要素を孕んでいる。現にわたしは今、必要を超えて棍棒を量産している最中だ。仕事で木を伐る機会が増え、硬くて棍棒向きの木が手に入るようになって火が付いた。実用だけを考えれば1、2本あれば足りるところを、わたしの棍棒コレクションはすでに15本ほどにのぼる。もちろんこんなにいらない。けれども、もはや棍棒製造は雨の日の習慣と化しており、雨の日が愉しみなくらいだ。雨の日といえども他に色々やるべきことはある中で、棍棒を量産した先に一体何があるのだろう。やろうとすれば、この時間で金を稼ぐことだってできる。それでも、止まらない。4月、この原稿を進めないといけないのに——いや、だからこそ逃避的欲求が作用して、雨のたび狂ったように棍棒を作ってしまった。そのあげく、スイカ割り用に140センチの大棍棒まで作った始末である(もちろん締め切りは過ぎた)。

棍棒の作り方はシンプルだ。木を適度な長さで切り、鉈で持ち手にする部分を粗くはつって瓶状にし、グラインダーに取り付けたペーパーサンダーで滑らかに仕上げるだけである。ただし、持ち手と打撃部のバランスが重要で、それぞれが長すぎても短すぎてもいけない。もちろん、細くて軽めのもの、太くて重めのものなど、色んな種類を作っておけば使い分けが利く。たとえ使わないとしても機能美というのがあるから、作る以上は、使いやすくて、野蛮で、美しいものにしたい。基本的に打撃部は皮が付いたままで持ち手だけを削るから、同じ樹種でも皮付きの部分と中身部分を見比べられるのもおもしろい。

使う木はカシが最良だろう。カシは木の中で最も硬い部類だし、多く植えられているから入手できる確率も高い。最近はたまたま手に入ったヒメシャラやサクラでも作っているが、カシに比べて見た目がきれいすぎる。その点カシは十分な硬さや粘りがあるのはもとより、棍棒にした時には飾り気がなくやや粗暴な見た目がいかにも棍棒然とした道具感をまとっていて、何かを叩いて傷がついてこそ完成というかんじがする。ヒメシャラ製の棍棒などは道具というより作品になってしまい、何かを叩くのを躊躇してしまう。とはいえ、カシで多く作ったあとにサクラやヒメシャラで作ってみると、その色や質感の違いが味わえておもしろい。大小も樹種も様々な棍棒を並べて眺めるとき、ある種の陶酔感があって最高である。

そこで、棍棒をもっと広めたいと思い、頻りにツイートしていると、自分も作りたいと言ってきた人が数人いる。その内の一人大学生のT君はすでに作りに来て、いいものができたとご満悦で帰っていった。やはり棍棒は実用を別にしても、ただモノとして人を惹きつけるのだ。T君とは悪魔的な形状の棍棒まで作って非常に愉しかった。ということで、かくなるうえは棍棒を売って金を稼ぐしかないのではないか、棍棒屋を名乗ろうかとさえ考えていたところに、今度は大阪でギャラリーをやっている友人が聞きつけ、来年の春あたりに棍棒展をしようという話になった。棍棒が万世不易の逸品であることをわたしはますます確信するばかりである。

実用する予定がない人をも虜にする棍棒だが、ともあれ、やはり何かを殴打するためのものは何かを殴打してこそである。里山ではそれが可能だ。ここには打つべきもの、打ってよいものが腐るほどあり、力を存分に発散することができる。——結局何を語ってもわたしの話は里山礼讃になるのだが、それだけ里山は多くのものを容れて余りあるということだ。食糧を自給することも、多くの生物の存在を愛でることも、彼らの生育に手を貸すことも、彼らを殺すことも、生態系を多種共働で作ることもできる。要するに人は里山において十全に生きることができる。そうわたしは信じているけれども、それにもかかわらず昨今里山が荒廃してきている根本の原因は、多くの人々が里山の愉しさを知らず、関わろうともしていないことだろう。棍棒は、木からできている。それも、打撃するためには硬い木でなければならない。現在山に多く植ええられているスギやヒノキは比較的柔らかい部類で棍棒には向かない。カシやケヤキやクヌギやコナラやヤマザクラやヒメシャラなどの硬い木を含む広葉樹(雑木)たちは、スギヒノキを植えるために多くが伐られてしまったのだ。彼らをもう一度増やしていき、多くの樹種が混淆する山になれば、どんなに愉しい生活が待っていることだろう。そのことを知らしめ、里山に関わる人口を増やす取っ掛かりとして、棍棒は有効なのではあるまいか。だから、今後もわたしは棍棒の普及に励みつづけたいと思う。

東千茅(あづま・ちがや)

農耕者、棍棒製造者、里山制作団体「つち式」代表。1991年、大阪府生まれ。2015年、奈良県宇陀市大宇陀に移り住み、ほなみちゃん(稲)・ひだぎゅう(大豆)・ニック(鶏)たちと共に里山に棲息。2020年、棚田と連続する杉山を雑木山に育む二百年計画「里山二二二〇」を開始する。著書に『つち式 二〇一七』、『つち式 二〇二〇』(私家版)、『人類堆肥化計画』(創元社)。

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