WHITEHOUSE

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ABOUT

渡辺志桜里SOLO EXHIBITION『ベベ』

SESSION 2021/5/30/Sun- 6/20/Sun

OPEN 14:00 – 20:00

CLOSE Tue,Wed

SUPPORTGO

COOPERATION カクイチ

CURATION 卯城竜太(Chim↑Pom)

STATEMENT

WHITEHOUSE 003 渡辺志桜里の初個展『べべ』を開催します。

昨年行われた渡辺志桜里と渡邊慎二郎の2人展「Dyadic Stem」(The 5th Floor、高木遊キュレーション)は、環境や生態系など現在のダイアログを体現した、メルクマール的な展覧会となりました。

と言いつつ、僕はそれを見逃してしまったのですが、「ノンヒューマン・コントロール」(TAVギャラリー、西田編集長キュレーション)や、「Waiting Room」(ドイツ文化センター、中島りかキュレーション)、「FLUSH」(EUKARYOTE、吉田山キュレーション)と言った、新世代インディペンデントキュレーターらによる秀逸なグループ展で渡辺の作品を観るにつれ、そのスケールと強度に、なんだか次なるヒト・シュタエルやアイウェイウェイのような、そんな時代の要請がもたらす計り知れない存在感を感じてきました。

渡辺志桜里の代表作「サンルーム」は、植物、魚、バクテリア、線形動物などをそれぞれ水槽に分離・自立させ、それらを一本に繋いだホースで水を循環させることで、人間の管理を必要としない独自の生態系を作り出す「システム」です。全てホースの循環上に点在しているので、その円環の内側には何も存在しない構造……その空虚な「中心性」のイメージを、渡辺は皇居に求めてきたと打ち明けています(これ、今まで公言してきませんでした。「サンルーム」にはコンセプトよりも「ただ存在する味気なさ」を求めてきたからであり、コンセプトに縛られるより変わり続けるものだから、と言います)。

皇居……東京という都市の空虚な中心であり、日本の家制度をはじめとした精神性の中心……は、実はそのすぐそばで産まれ育った渡辺にとっては、最も身近な大自然であり、しかし立ち入りが許されない不思議な場所でした。

芸大彫刻科に入学する以前、渡辺は20代の多くを山中で過ごし、鹿や猪、山鳥などの狩猟や、山菜などの採取に明け暮れていたといいます。当時の渡辺が「生き物を殺めて食べること」に強く惹かれたのは、自分が循環の外側にいたような不自然さゆえでしたが、そんな青春を過ごすことになった生育環境の影響として、誰もが政治的に必ず外部になってしまう原生林化した森・皇居が真横にあったことは大きかったのでしょう。

初期「サンルーム」(2017-)の植物と魚、水は、全て皇居から採取されました。「近所だったから」……と渡辺は言いますが、聞くと、そこで何かを獲る時は必ず全裸になるらしく、それ程に何か意味不明に精神的なものを負っている時点で、そこにはもっと僕には理解し得ない執着心があったのだろうと思います。それから5年、「サンルーム」は止まることなく循環し、今も動き続けています。お濠の水は雨水に引き継がれ、皇居の雑草は枯れました。代わりに植物はいくつかの固定種(先祖代々同じ外見や味などの特徴のことが受け継がれてきた品種)の種と、それらの勝手な交配によって「サンルーム」上に適応・ミックスし、野生化した野菜へと移り変わりました。魚は皇居のモツゴから、なんと金魚へと代替え。しかし、そうやって「サンルーム」を更新するたびに、渡辺は、その固定種同士の交配にみる純血論や、金魚の繁栄という人工的な種の継承など、様々なものに相変わらず皇室の宿命を見てきたと言います。

本展での「サンルーム」には、更に、皇居で釣ってきたブルーギル、バクテリアの住みかとしての富士山由来の溶岩、緑藻、そして外濠で採取されたイトメが加わります。ブルーギルは、昭仁上皇にシカゴの水族館から食用として献上されたのが、日本初上陸となった外来種です。

これら「サンルーム」の分散性や拡張性は、「どこで完成」とか「どれが主役」とか、そういう概念自体がもとより作品に備わっていないからこその特性です。と言うか、そもそも拡張といえばギャラリー内に展示される循環自体も、雨水や電気といった外部との接続によって維持される仕組み……「サンルーム」は、思弁的に「人類絶滅後」や「ノンヒューマン」といったテーマで良く語られますが、渡辺は電気という人工物の存在を、あくまで「人類が続く限り供給可能」なものであると捉え、その矛盾を、だから「サンルーム」自体は電気が止まるまで、ようは人類が存続する限りは観られるものであり、電気はその「鑑賞の条件」なのだ、と全面的に受け入れています。その事を問われると、「電気が無くなり、このシステムが止まる時のことを考えると楽しい…」と、人類絶滅のその瞬間をニヒルに語ります……。

また、本展で渡辺はその拡散性を更に広げる「道具」として、「人間」を使うことを目論みます。これは、 WHITEHOUSE発の、またはそこに集う人々のいくつかの「営み」が、期せずして何かの生き物を世に移動させる、という流れを生み出す試みです。

そもそも、皇居というノンヒューマンな場所から生まれた「サンルーム」は、しかし同時に展示されることで人々に観られる「作品」です。渡辺は、これまで抱えてきたそのバランスの悪さ……「人間」をあえて本展に「取り込む」事で、展示を会場の外側へと拡散しようと考えました。

パンデミックが人間の活動によってグローバルになったことからも明らかなように、いまの世界は1つ1つの異なる些細な動きが連なることで、巨大なダイナミズムを生み出しています。実際、そこには主役といえるような存在なんてなくて、どんなに小さな活動1つをとってみても、その影響は世界の裏側まで直ぐに伝わっているかのようです。

渡辺はまた、(それを自ら体現するかのように、)これまで WHITEHOUSEの周辺で密かな活動を日課として続けてきました。これは今まで彼女が展示してきたギャラリーでも同様だったようですが、野鳥を呼び寄せたり、空き地や会場の隙間に外来種の種を蒔いたり、近所の動物とコミュニケーションを測ったり……色々です。渡辺にとって、「展覧会」とは、ギャラリーという作品の置き場をこえた、その周辺環境との共振であり、彼女の所作が及ぼす、生態の変化の機会なのかもしれません。

僕はこの活動こそが渡辺の重要な側面だと考えますが、しかしそれについて渡辺は、自らは特に語ろうとはしません(秘密ではないので聞けば言いますが)。彼女が人知れず行ってきた動きの全てを知ることは、渡辺自身にも不可能であり、何よりもその1つ1つが、先述したような影響を必ずどこかにもたらすのだという考え(アクターネットワーク理論的な話)に、一周まわって懐疑的だからだと渡辺は言います。はたして全ての行為がそのように影響を持つのか。そう言い切る彼女は自身の「所作」の意味を、あくまで無意味なものかもしれないから、と濁し続けます。「サンルーム」の生態系もまた、雨水や気候、外部との連なりで維持される以上、地球上で起こるすべての影響を受けますが、その全てを知ることは不可能です。「離れたものが繋がり、影響を持つ」……そんな「脈略」自体を水の流れで表現するのが「サンルーム」だとして、同時に、いつか、電気が止まり、循環が終わり、「脈略」自体が途絶える、逆説的にそのネットワーク自体が消える瞬間もまた、「サンルーム」なのでしょう。

渡辺志桜里の初個展『べべ』は、このようにWHITEHOUSE全館を使ったインスタレーションと、鑑賞者の無意識の活動、そしてきっと多分、渡辺の密かな日課によって展開されます。それが世界の何かを作り替えるのか、無意味なものとして潜むのか。どちらにせよ、それは、「グローバル」という価値観がついにオワコン化した現在のその先の、「プラネタリー」な時代の到来を告げるものとなるはずです。

是非ともご高覧を。

卯城竜太(Chim↑Pom)