およそ100年前、大正時代前後にかけて、多くの芸術家たちは単なる作品制作にとどまらず、自らの理想を社会のただ中に具体化すべく、新たな空間の創出に挑んでいた。彼らの営為は、単なる空想に終始するものではなく、現実において“異なる在り方”を具体的に提示する試みであった。
本展は、そうした世界構想を「大正異在共芸界」と名付け、その建設志向を紹介するものである。企画とキュレーションは、若干23歳の若手研究者・阿部優哉が担当する。初のキュレーションを試みる阿部は、これまで「理想郷(ユートピア)」として語られてきた諸構想を、ミシェル・フーコーが提唱した「異在郷(ヘテロトピア)」——美術館であり、墓地であり、当時でいえば植民地など——すなわち「あらゆる場所の外部にある、現実化された理想」として読み替えることで、現実と理想の境界線を、生活と芸術の狭間に見出そうとしている。
「大正異在共芸界」とは、芸術と生活を分かちがたく結びつけ、実社会と交錯しながら理想を追求した芸術家たちによって生み出された、“芸術とともに多種多様な存在が共に生きる空間”である。本展では、その創出を試みた10名の作家の構想を紹介する。
それぞれの作家が構想した「異在共芸界」は、彼らが置かれた現実や理想に根ざしており、一様に語ることはできない。その「個人が世界を構想する」というスケールとバリエーションは、今日の視点から見てこそ十分に注目に値する。こうした多様な空間の広がりを横断的に捉えるため、本展ではひとりの忘れられた画家の計画を“案内人”として取り上げる。明治・大正期に独特の存在感を放った日本画家・尾竹越堂(1868–1931)による、「一大楽園公園墓地」である。
それは、優れた芸術家たちの墓所を集めた公園型共同墓地であり、墓碑には「現代美術の粋を凝らし」、草花や鳥獣に囲まれた楽園的空間として構想されていた。さらに遺物館に故人の芸術や声、演説、行動などを記録・保存し、後世に伝えることまでも視野に入れていたという。
その構想には、東京府美術館(現・東京都美術館)の創設に尽力した越堂らしく、西洋化において当時の芸術家たちが渇望した美術館建設の草案的な意味が込められていた。それは、美術館が“作品の墓場”であるという否定的な比喩が成立する今からしてみれば、まさにその比喩を肯定的に裏返した美術界への理想であり、芸術と死、そして未来とを結ぶヴィジョンでもあった。
本展では、越堂のこの構想を“展示指示書”として受け取り、WHITEHOUSE の展示空間に「一大楽園公園墓地」の一端を仮設的に現出させる。会場には、参加作家の実際の墓石から採取した墓拓をもとに構成した共同墓地、植物、鳥獣、運動場、そして遺物館を模した空間を設け、その中で各作家の「大正異在共芸界」への理解を試みる。
「ユートピア」がにわかに再注目されつつある。中島晴矢によるWHITEHOUSEでの個展や、現在開催中の弘前れんが倉庫美術館でのグループ展など、至るところでこの語に出会う機会が増えているように感じられる。万博における未来都市の夢や、イーロン・マスクによる火星のテラフォーミング構想に見られるように、現在という時代は「ユートピア」という概念を再考するためのトリガーに満ちているのかもしれない。
世界的な美術の潮流においても、ルアンルパによるドクメンタ15が、「作品」や「作家性」という価値観を相対化し、コミュニティやコレクティビズムを通じて、美術を社会的な場へと再構築する動きを見せたことは記憶に新しい。そこに現れたのは、まさしく一時的な「ヘテロトピア」であり、大正期の多くの芸術家が目指していた、生活と芸術が溶け合った時空間であった。
彼らが考えていたこと……それは、芸術家が作品の枠を超え、理想の世界観を創造するという試みである。言い換えれば、芸術は作品の中だけにあるのではなく、生活の中においてこそ真に実現されるべきものである。作品を制作するように、芸術家は現実自体を創造しなくてはならない。
これが約100年の時を経て私たちに届くのは、ようやく彼らの芸術や文化を見つめる「目」が我々に備わったからなのかもしれない。
アーティストが美術を美術界の内部だけで語り、実践する時代は、1世紀ほど前──すなわち現代アートの原初において、すでに終わっていた。このことにどれだけの意味があるのかを、是非確かめに来てほしい。
卯城竜太
P.S. 本展は僕にとって、現在丸木美術館にて開催中の「望月桂展」、そして次回WHITEHOUSEで開催予定の「松田修展」とあわせて、「大正3部作」とも呼ぶべき位置づけを持つものである。あわせてぜひご高覧いただければ幸いである。