WHITEHOUSE

モノラル、サブオブジェクティヴ・フィクションズ

仲山ひふみ

1. 

 モノラル(monaural)とは音響エンジニアリングの用語としては、単一のマイクで録音された音もしくは単一のスピーカーから再生された音のことを指す。より正確には音というより、信号としての音をそのように入力し出力する仕方、録音と再生の方式である。オックスフォード英語辞典はモノラル(形容詞としての)について次のような語釈を与えている。「(録音と再生について)チャンネルをひとつだけもっていること。そのため出力信号はひとつとなり、音は単一のソースから届いているように感じられる。ステレオフォニックと対立する」。またこの意味では「モノフォニック(monophonic)という語のほうが現在では好まれている」。ところで同辞典は、モノラルのもうひとつの語義として「ひとつの耳だけを使用すること、またはそれに関係すること」を挙げてもいる。モノラルという単語は「単一の」という意味をもつ接頭辞mono-と「耳に関する」という意味の形容詞auralの結合によって成り立っているのだから、語源的にはこちらの語義のほうが本来的であるとも言えそうだ。いずれにせよモノラルの意味=感覚は、すでに分裂したものとして私たちに与えられている──ひとつの耳に関するものなのか、それともひとつの音に関するものなのかという問いを、この語はすでに孕んでしまっている。

 ひとつの音という意味でのモノラルは、モノフォニックと同義であり、単一のスピーカーが鳴らす音を両耳で聴くこと、もしくは二台のスピーカーないしヘッドホン/イヤホンの左右にまったく同じ音声信号が送られることで鳴る音をやはり両耳で聴くことを意味している。ステレオフォニックでの再生の場合には、二台のスピーカーないしヘッドホン/イヤホンの左右にそれぞれ流されることを想定して、異なった二つの音声信号があらかじめ用意されている。そしてこの二つの異なる信号が音として私たちの両耳に届くとき、ある想像上の空間が──ステレオイメージと呼ばれる──それらの音がそこで鳴り響いていたはずの空間として、私たちの知覚的意識のうちに立ち上がることになるのである。このことはすでに、録音/再生方式としてのステレオが、たんに左右のチャンネルに異なる二つの音声データを割り当てることのみに存するのではないことを示唆している。ステレオはそれが鳴らす識別可能な複数の音源が〈ひとつの〉時間と空間を共有しているものだと聴取者が自然に信じ込むようにするためのある種の技芸(technics)を内包しているのだ。この技芸に託された認識論的な役割は、歴史的重要性の点からすれば比較にならないものの、ルネサンス期に絵画の分野でブルネレスキが開発した線遠近法のそれに類似していると言うこともできるかもしれない。つまり、それは一方では自然の現象的な諸形態をより忠実に模倣することを目指すものでありながら、他方では有機体としての人間の知覚的諸活動の心理学的かつ生理学的な構造を解明し、これを操作し支配することを目指すものでもあったのである。

 周知のとおり、私たち人間は生態学的に通常の条件下では左右二つの耳を使って音を聴いている。私たちの身体がそこに存在しているのと同じ物理的な空間のなかに存在している単一のオブジェクトから発せられた音波が、媒質としての空気を伝って左右それぞれの耳に届いた際の音量の違いや音の遅れ(位相のずれ)さらには音色(スペクトル)の微妙な変化などを感じとり、脳内で知覚的に処理することによって、このオブジェクト=音源(ソース)の空間的位置を直観的に把握している。これが両耳聴取(binaural listening)と呼ばれるものだ。ステレオフォニックの技術は両耳聴取のこのようなメカニズムにおいて特に音量の差異(両耳間強度差 interaural intensity difference)が果たす役割を重視することによって成り立っていると言えるだろう。たとえば、一本のマイクでギターの演奏を一トラックに録音し、また一本のマイクでベースの演奏を一トラックに録音し、また一本のマイクでボーカルの歌を一トラックに録音し……といった具合に、モノラルで録り溜められた複数のトラックを最終的にステレオの音声ファイルへとミックスダウンする場合を考えてみよう。聴取者から見て正面に位置する(と想定される)ボーカルの音は、左右二つのチャンネルに同じ音量で割り振られ(いわゆる「ファントムセンター」)、そして左手に位置するギターの音は左に6割右に4割の比率で、また右手に位置するベースにはその逆の比率で音量が割り当てられることになるだろう。左右のチャンネルでの音量のバランスをこのように変化させることで音源の想像上の位置を聴取者の左右方向に移動させることをパンニングという。「パンを振る」ことのみによって生み出されたステレオイメージは、言うまでもなくかなり人工的な印象を与える。人工的どころか、それを虚構的だと評することすら可能だろう。というのもマルチトラックで録音されたそれぞれの楽器(および声)の演奏は、ステレオイメージが信じ込ませるのとは異なり、実際には同じ時間に同じ場所で行われたものではないからだ。しかしこれはステレオであるか否かということとは直接的には無関係な、オーバーダブでの音楽制作に特有の虚構性だと見ることもできる。より重要なのは、モノラルマイク一本で行われた録音から純粋にパンニングのみによって作り出されるステレオサウンドは、両耳聴取のリアリティをしばしば誇張し、戯画化するという点である。左右の耳でそれほど大きな音量差を感じることは実際のライブ演奏の現場においては稀である以上、過剰なパンニングによる音像定位の強調は、反響や回折も含めた音の遅れ(両耳間時間差)や会場の周波数特性に影響される音響スペクトルの変化といった欠落した情報を想像的に補うためのトリックであり、慣習化された知覚的「ギミック」(シアンヌ・ンガイ)なのだと考えることは適切であるように思われる。そもそもステレオフォニックという単語自体が、「立体の、固体の」を意味する接頭辞stereo-を含むものの、その技術によって得られる音源の位置情報が前後と左右のたかだか二つの座標軸しか含まない平面的なものである限りにおいて、すでに虚構および幻想としての性格を避けがたく帯びてしまっている。

 

2. 

 ステレオという技術は19世紀に流行したパノラマと同様に幻想的性格を帯びている。ステレオフォニックの視覚領域における対応物であるステレオスコープが21世紀初頭の3D映画の流行によって不思議な復活を遂げたように、幻想は歴史的な距離を飛び越えて突然回帰してくることがある。ミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかで指摘しているように、19世紀とは人間が労働・生命・言語という三つの実在性の線が交差する点に措定されることで、理論的にも実践的にも実証主義的な言説の対象となり、「近代のエピステーメー」の中心となっていったきわめて特異な時代である。音響学と知覚心理学の基礎となったヘルムホルツやフェヒナーの業績はいずれも19世紀に出現している。ジョナサン・スターンはヘッドホン/イヤホンによるステレオ聴取が、19世紀を通じて技術的な改良が重ねられた聴診器にその起源をもつことを指摘している(cf. ジョナサン・スターン『聞こえてくる過去──音響再生産の文化的起源』中川克史・金子智太郎・谷口文和訳、インスクリプト、2015年、194頁)。耳を含む生きられた身体は医学的かつ技術的な介入と操作の場となり、並行して個人主義的な大衆消費社会の想像力の下地が育まれてゆくことになる。しかし音と聴覚に関するこのような新しい見方が大衆の欲望を巻き込んで広範な技術的実現の機会を得たのは20世紀に入ってからのことで、それは言うまでもなくラジオとレコードの登場によって促されたものだった。初期のラジオやレコードの再生方式が原則的にすべてモノラルであったことを思い起こすならば、グローバルな一般性を獲得した現在の音響技術に含まれるステレオとモノラルの概念を、それぞれ19世紀と20世紀の欲望に対応した地層のようなものとして考えることもできるだろう。モノラルという語の本来の意味、ひとつの耳で聴くことという意味は、近代兵器の投入された戦争により私たちの身体と知覚システムが非人間的なまでに切り刻まれ、完全な回復の見込みのない損傷を負わされた結果、世界がそれまでの自明な意味と価値とを失い、「括弧に入れられた」ものとして私たちの実存の前に立ち現れるようになった時代の無意識を何ほどか含んでいるように思われる。フッサールの現象学やハイデガーの「存在の意味の問い」といった企ては、音を含むさまざまな事物が私たちの外側に、私たちを取り巻く環境として〈自然に〉存在しているという想定をいったん宙づりにする「エポケー」という操作を経ることによって初めて可能となったのだった(「存在」という言葉の意味がもはや自明ではなくなったとき初めて「存在の意味の問い」が意味をもつようになる)。外的対象としての音源の実在を措定することなく、現象として与えられる内在的対象としての聴覚的「センスデータ」のみから音響的世界を構成しなおすこと──さらに想像力を逞しくさせて言えば、シェーンベルクが発見した12音技法からピエール・シェフェールが創始したミュージックコンクレートに至るまで、20世紀のクラシック音楽における重要な前衛的成果は、すべてこのような「エポケー」から出発して聴覚的音響的な意味の世界の再構築を目指すような、ひとつの耳という意味でのモノラル的な意志によって貫かれていたとさえ思われる。

 そしてこのような19世紀のプチ・ブルジョワ的世界観の「没落」の文脈のなかで、サルトルの『嘔吐』のような小説が颯爽と現れ、新しい英雄的=反抗的な主体性のイメージを第一次世界大戦後の若い世代に向けて示すことに成功したのだとすれば、ラジオの決して高性能とは言えない単一の内臓スピーカーから流れるロックンロールもまた、それと同種のイメージを第二次世界大戦後の若い世代に向けて示すことに成功したのだと言うことができるだろう。ポピュラー音楽史におけるモノラル録音の位置価は、それゆえある強い意味での主体性のイメージと切り離すことができない。音楽が周囲にごく〈自然に〉存在しているようなプチ・ブルジョワ的環境から離れて、ラジオやレコードを通じてひとつの耳が、いまだその姿を完全に現しきっていない音楽の新しい形式、新しいサウンドに衝撃的な仕方で出会い、その結果、この新しい形式ないしサウンド、新しい情動のスタイルをいずれ自身でも生産することを試みようと密かに決意すること──モノラルという技術には20世紀におけるそのような強い主体性のイメージ、外的対象として物象化されることの決してない〈志向的対象〉としての音楽のイメージが抜きがたく刻印されている。

 もちろんステレオも時とともにたんなる知覚的な「ギミック」に留まらず、技術的な〈改善〉を重ねてより〈自然な〉音響イメージを提供するものへと変容していく。そのプロセスは、ステレオマイクの開発や各種のマイクセッティングの発見などによって位相と音色に関する情報が利用可能になったことに始まり、ハリウッド映画における5.1chサラウンドの標準化を経て、ダミーヘッドを使用したバイノーラル録音の出現とそれを応用したいわゆるASMRの流行、そして「イマーシヴ」な体験を売りにする各種の芸術作品やアトラクションの増加へと続く……19世紀的なステレオの夢、客体性の夢は、かたちを変えながら現在再び強力になりつつあるように見える。このような時代にあえてモノラルの魅力を再発見しようとするならば、その身振りはたんなる文化史的な懐古趣味を超えて、ある政治的なニュアンスを帯びてこざるをえないだろう。

 

3. 

 しかし私たちは、ステレオという技術に「幻想的」性格を、モノラルという技術の「志向的」性格を割り当てることで、前者を19世紀的客体性の夢、後者を20世紀的主体性の夢というふうに、あまりにも安易に図式化してしまったのではないだろうか。そもそもモノラルないしモノフォニックとは、ステレオがレコード・アルバムにおける標準的録音方式となっていく60年代後半において遡行的に見出されたカテゴリーであって、当初からひとつの技術として意識されていたものではなかった。したがって私たちがモノラルを技術ないし技芸と呼ぶとき、そこにはすでに一個のアナクロニズムが含まれていることになる。フィル・スペクターやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズのように、モノラル録音にこだわるミュージシャンは現実にたしかに存在している。しかしそれらは評価の仕方としては、あくまでモノラルが制約であることを認めたうえで、この制約に美学的なメリットを認めるといった類いのものであって、モノラル自体の技術的可能性を積極的に唱えるようなものではなかった。このことは、モノラルの美学的可能性を主張する議論が、客観的なもの──音響的空間──に対する主観的なもの──聴取の空間とでも言うべきもの──の無条件な優位性を訴えるという、ステレオがもたらす幻想とはまた別の幻想に行き着く危険を孕んでいることを示唆しているように思われる。

 単一の音源から放たれるひとつの音の継起を聴くという意味でのモノラル的経験も、実際には私たちが両耳聴取を行っている以上、ステレオ的経験の特殊事例にすぎないと言うこともできる(私たちが本当の意味でのモノラル的経験、すなわち単耳聴取に近づいているのは、日常生活においては電話のスピーカーに耳を押し当てているときぐらいかもしれない)。再生方式としてのモノラルには、ステレオがもたらす標準的な虚構性とは別の、しかし究極的にはそこから派生したものと見なせるような虚構性が宿っている。すなわち、モノラルで再生される音をひとつの音源から鳴る音として聴く場合、私たちはそれを、左右二つの耳を用いて聴きながらも、あたかもただひとつの耳で聴いているかのように想像するのである。ステレオが登場する以前にモノラルを聴いていた人々は、そのような聴き方はしていなかったはずだ。彼ら彼女らはごく自然に、モノラルの出力装置から出てくる音を、ある空間で鳴らされた音が狭い穴(グラモフォンに付属するホーンのような)を通って自分たちがいる空間に伝わってきたかのように聴いていたはずである。そのようにして彼ら彼女らはモノラルで再生された音から複数の音源(複数の楽器や声)を聴き分け、さらにはそれらの空間的位置関係を思い浮かべることさえできていたに違いない。彼ら彼女らにとってそのような想像を働かせることはあまりに普通のことでありほとんど意識されていなかったと思われるが、ステレオに慣れた耳をもつ現在の私たちは、モノラルで再生される音のなかに含まれる音源の位置関係を想像しようとするとき、そこにある不透明な、無規定性の壁があることに気づかざるをえない。その結果、たとえばグレン・グールドが1956年にモノラルで吹き込んだベートーヴェン《ピアノ・ソナタ第30番》の演奏を聴くと、その音を私たちはあたかも一点に凝縮された純粋に音楽的な意志が生み出した、「志向的」な音の連なりであるかのごとく聴くことになるのであり、かつてであれば特に屈託を交えることもなく思い浮かべていたはずの音源間の(この場合はピアノの各弦のあいだの)位置関係といったものも、もはやあえて想像する必要のないものとして、否、それが「音そのもの」には含まれていない情報である以上もはや想像すべきではないものとして、聴きとることを避けるようになるのである。私たちが想像的に追跡し象徴的に同一化することを許される(と私たち自身が感じる)のは、グールドがそのセッションの録音時に使用していたであろう一本のマイク、スタジオに立てられていたであろうあの機械仕掛けのひとつの耳までのことなのである。

 このような禁欲ないし謙虚さの姿勢は、当初からモノラルの聴取に備わっていた属性ではなく、あくまでも事後的に出現したものであることを押さえておくことが肝要である。別の観点から言えば、ステレオ技術の発達以後にモノラルを聴きなおすことは、「(録音された)音そのもの」に含まれる物理的な情報量の少なさ、すなわち音の空間時間的な諸規定の乏しさが、かえってその美学的な(「志向的な」)深さに寄与する場合がある、ということに私たちが気づくための歴史的機会のひとつを提供していた。実際、仮にモノラルの美学といったものが存在するならば、それはいわゆるローファイの美学と歴史的に見て少なからぬ関連性をもつに違いない。どちらの場合も鍵になるのは、新しいメディアが古いメディアを引用し、相対化することによって、かつては透明なものであった古いメディアの特性が不透明化され、可視化されることである。録音された限りでの音、つまり外的対象としてのその音源が措定されないような音という意味での「音そのもの」が、まさしくそのような間メディア的な操作を通じて発見されることになる。聴かれた限りでの音は──シェフェールによって新たに作り出され、映画音楽研究家のミシェル・シオンがその概念を発展させた術語を用いるなら──「アクースマティック」な音と呼ばれるが、先ほど私たちが触れた20世紀現代音楽における「エポケー」的な諸成果も、振り返ってみれば、特にミュージックコンクレートやシュトックハウゼンらが取り組んだ電子音楽に関しては音の「アクースマティック」な次元をラディカルに探求するものだったのだと整理することができる。〈聴かれた限りでの〉音すなわちアクースマティックが〈録音された限りでの〉音そのものと同一視されることの背後には、聴くことそれ自体という掴みどころのない透明な現象を、先述の新旧メディア間の不透明な差異を通じて、いわば物象化しつつ理解することへの欲望が潜んでいるようにも思われる。モノラルが提示する志向的=主体的な音はステレオが主導する音の物象化=客体化への抵抗になっている、という図式化が単純すぎるものとして批判されなければならないのは、まさしくこのためである。モノラルにもまた固有の物象化=客体化、あるいは疎外の契機が含まれているのだ。それは現在の私たちが私たち自身の耳ないし聴覚の内在的働きについて考えるうえで、マイクという外的な技術的対象を隠喩的に引き合いに出すことから逃れられないという歴史的事実のうちにも見てとれるような、私たちの想像力の基本的条件に深く結びついた疎外である。

 

4. 

 隠喩的思考は、広い意味での虚構性のうえに成り立っている。私たちはステレオの技芸がある種の虚構性にもとづいており、19世紀的「幻想」の系譜に属していることを示唆したが、ステレオの標準化とともに遡及的に措定された20世紀のモノラルという技芸も、やはりある種の虚構性に依拠していることがいまや明らかとなりつつある。そこで、モノラルという語に初めから含まれていた分裂した意味──ひとつの耳か、ひとつの音か──に従って、私たちはモノラルがもつ二つの虚構、二つの隠喩を区別することを提案する。すなわち、

モノラルα:耳マイク……アクースマティック

モノラルβ:音スピーカー……パノーラル

である。モノラルαについてはすでに説明したから、以下ではモノラルβについて説明しよう。

 再生方式におけるモノラル、すなわちモノフォニックとは、私たち自身が定義したところに従えば「単一のスピーカーが鳴らす音を両耳で聴くこと、もしくは二台のスピーカーないしヘッドホン/イヤホンの左右にまったく同じ音声信号が送られることで鳴る音をやはり両耳で聴くこと」である。だが、この後半部はアクースマティズムの立場から考えれば正確には〈二つの音〉を聴く状況に対応しており、真の意味でのモノラルの状況とは呼べない。というのも、私たちはその場合には現実的には両耳聴取を行いつつ想像的(虚構的)にのみ単耳聴取を行うのであり、志向性はひとつの音へではなくひとつの耳へと(隠喩的ないし物象化的に)収束していく──そして結局これは、ステレオ的虚構の派生態としてのモノラルαの状況であることが判明するからである。しかしそんなことを言うのであれば、モノラルβもステレオ的虚構の派生態ではないか、と反論されるかもしれない。なぜならたしかに、単一のスピーカーから音を鳴らしている場合でも、私たちが行っているのは両耳聴取だからだ。私たちはその一個だけのスピーカーが私たちの身体が所属しているのと同じ空間に所属しているということをごく〈自然に〉信じており、それが私たちの前後左右のどこに置かれているかを意識しながらそこから流れてくる音を聴いているように思われる──聴かれている音がひとつであることの確認が二つの耳を必要としているのだ(さらに言えば、90年代のテクノ(特にIDM)/エレクトロニカの出現以降、パンニングが現実空間での響きの再現ではなく抽象的空間での音の運動の表現に使用される傾向が高まっている以上、「モノラルよりステレオのほうが具象的(再現的)だ」と単純には言えなくなってきている)。また、グラモフォンのホーンから流れる音楽を例にとって古き良き時代のモノラル聴取における音源識別と音源定位について私たちが先ほど語ったことを思い起こすならば、現実でのスピーカーの単一性は、少なくとも想像上での音源の単一性を必ずしも意味しないという反論も提起されうる。しかしながら、アクースマティズムの出現によって事後的な反転を被った私たちの意識は、スピーカーがひとつしかない場合にはそこから再生される音に関して、音源(ソース)の単一性をまさに想像的に補強しながら聴くようになる。すなわち、スピーカーから再生される録音された音に含まれる音源の表象的な複数性(たとえばオーケストラの演奏が録音されている場合にはそれぞれ識別されうる音源としての諸楽器)を、スピーカー自身の物質的振動の非表象的な、こう言ってよければ〈一者論的〉な複雑性へと還元しながら聴くことになるのだ。想像力はかつてのようにスピーカという穴を抜けた先にある隣の部屋で鳴っている複数の音=対象をめぐって作動するのではなく、穴それ自体という単数の音=対象をめぐって作動する。注意すべきはモノラルβにおけるこの反転が、両耳聴取を否定しないという点である。そもそも私たちが左右の耳を使って音を聴いていることは、それを避けることは困難であるという意味で私たちにとって「自然な」条件であり、モノラルβの経験は、この条件のもとで実際には複数あるはずの音源が「聴こえ」(アクースマティックな様態)のうえで単数(ひとつの音)へと収束していってしまうという現象に焦点化することによって練り上げられたものにほかならない。それゆえ私たちはモノラルβの状況において、左右の耳に届く異なるセンスデータとしての「音そのもの」に分析的に注意を向けるよりもそれらを総合的に知覚することに努め、単一のスピーカーの空間的な位置を意識することになるわけだが、それはすべての音は空間時間的位置をもつという認識的事実に対して聴取者である私たちの注意が高まっていることの──標準的なステレオフォニックによる物象化を逃れ、「幻想を横断して」(ラカン/ジジェク)、物質的な音そのものに遭遇するための準備ができていることの──部分的な現れにすぎないとも言える。またこの意味で、ひとつの音ひとつのスピーカーという隠喩的虚構は、音がひとつのものとして数えられるようになるということ、すなわち音と音源との個体化に関して、これまで問われてこなかったような種類の問題を提起する。一般的に、空間時間的な位置は物理的対象にとっての個体化の原理と目されているものだが、モノラルβ的聴取はいかなる幻想も錯覚も介さずに個体化という実在性そのものの核心をなすこの局面へと赴くことを特徴としている。かくして単一のスピーカーは、それが再生する音の(ステレオではないにせよ、マルチトラック的な)イメージに含まれる多様性の錯覚から解放されて、それ自身の存在論的な特異性へと凝縮されることになるだろう。そもそも、ひとつのスピーカーは物質的にはいくつもの異なる素材の部分から組み立てられており、それらのすべてが音源として──独立した音の生産者として──認められる権利を有していると言える。こうしたことは通常は一個の音源として、統一性をもつものとして扱われている楽器についても当てはまる。ひとつのスピーカーやひとつの楽器をひとつの音の生産者という意味でのひとつの音源と見なすこと自体がすでに、根源的想像力の介入によって可能となった認識的な虚構のオペレーションなのである。

 それゆえモノラルβが提示する隠喩的虚構、ひとつの音ひとつのスピーカーという定式こそが、「モノラルズ」と命名されるべき風景を開くことになる。そこではすべての物質的な点や線や面等々が潜在的な音源として振動しており、聴かれるべき音を匿った個体として振る舞っている。私たちはひとつの音が個体化する出来事に〈聴く〉という知覚的行為を通じて参加する。そしてこのひとつの音がいかなる意味で〈ひとつ〉なのかと言えば、それはその音が統一化された物質的な対象としての音源との想定された因果関係のうちにあるという意味においてにほかならない。私たちはこのような意味でのひとつの音音源の物質的個体化の出来事に、モノラルβの虚構的ギミックを通じてアクセスすることになるのだ──すべての音を発するオブジェクトはスピーカーであるという隠喩的虚構を通じて。

 最後に、モノラルβの定式の末尾に含まれる、「パノーラル(panaural)」という用語について説明しておこう。それは聴覚文化研究者のダグラス・カーンによるサウンドアートの歴史を扱った名著『ノイズ・水・肉』のなかのジョン・ケージを取り上げた章において導入した概念であり、もともとの文脈ではケージの「沈黙(silence)」の概念に対する強い批判的な意図が込められたいた。よく知られるように、ケージは彼が「沈黙」と呼ぶものを偶然的なノイズに満たされたものとして、「意図していないすべての音」からなるものとして考え、翻ってあらゆるノイズのうちに作曲家や演奏家の主観的なエゴイズムが消失する契機──すなわち沈黙を聴きとることを試み、また聴衆に対してもそれを聴くことを促したのだった。カーンは、ケージのこうした「沈黙」としてのノイズの思想に対し、あの有名な無響室のエピソードがその背後にあることも確認したうえで、それが音楽家の主観的な意図(発言)を「音そのもの」から除去することには成功していても、聴かれうること=音であることというパノーラリティ(汎聴覚性)の図式を介して、主観的な属性を再び客観的な音の世界全体に投影するという過ちを犯しているのだと指摘する(Douglas Kahn, Noise, Water, Meat: A History of Voice and Aurality in the Arts, Cambridge, MA: MIT Press, 1999, p. 197-8)。カーンのこの指摘がケージへの批判としてどれほどの妥当性をもつのかはひとまず措くとしても、そこで言われているパノーラルの思想が、ひとつの音ひとつのスピーカーという隠喩的図式から引き出される最大の帰結、すなわちあらゆる事物が潜在的にはそれ自身の音ないしは振動をもっているとともに、他者の音ないし振動を集約し伝搬するものとしてのスピーカーであり、したがってそれ自身さらに複数の音源から合成されるような音源でありうるという考え方と明らかに対応しているから、私たちとしてはパノーラルの概念をモノラルβの虚構的思考のうちに必然的に含まれるものと見なしてもかまわないことになる。モノラルαにおいて鍵概念であったアクースマティックとモノラルβないしは「モノラルズ」の鍵概念としてのパノーラルとのあいだの差異は、前者の〈ただ聴かれうるだけのものとしての存在者〉という性格が弁証法的に捻られて、後者においては〈存在者のただ聴かれうるだけの存在〉へと変容していることとして説明されうるだろう。音であるとは聴かれうるものであることだ、という定式から一歩進んで、存在するとは聴かれうるものであることだ、という定式が得られる。想像力は存在論的な次元で行使されるようになり、音響的個体化の原理そのものとなる。この個体化の原理は究極的にはひとつの多元論をもたらすだろう。なぜならそれは、録音された楽器や声の「幻想的」統一性のそれでも、再生するスピーカーの(存在者としての)「志向的」統一性のそれでもなく、一台のスピーカーはそれ自体ですでに複数であるという存在論的な普遍性の直観によって支えられているものだからだ。パノーラルの思想はケージにおいては、コンタクトマイクを使用してあらゆるオブジェクトの隠れた微細な音をその細部まではっきりと聴きとれるように増幅し、スピーカーから放出するというかたちで現れた(カーンはケージが遠くない未来に個々の分子の振動する音さえもが聴かれるようになるだろうと予言的に語っていた事実を強調する)。しかし耳マイクと音スピーカーの隠喩的な調和をつゆも疑わずに、音の存在論的領域があたかもすべて聴取の認識論的領域へと相関的に紐づけられているかのように考えるならば、私たちはカーンが警告したような意味でのパノーラリティの罠に、あるいはモノラルの20世紀的精神に含まれる無条件的な主観性の幻想という罠に陥ることを免れないように思われる。このような罠を回避するためには、ひとつの音ひとつのスピーカーという隠喩的虚構を、物質それ自体がもつ原理的に数え上げることのできない多数多様性、このそれ自体はもはや主観的でも客観的でもない、思弁的仮説的な多数多様性に向けて絶えず開きなおし続けることが要求されるだろう。そのような多数多様性は諸事物の存在論的な偶然性に由来する──したがってケージの本来の思想においても、パノーラリティの概念は偶然性の概念によってつねに裏打ちされていたことが思い起こされねばならない。

 

Coda.

 物質のたんに(幻想的に)客観的なのでもたんに(志向的に)主観的なのでもないような多数多様性に向けてひとつの音ひとつのスピーカーという虚構隠喩を拡張すること……私たちの現在の耳はこのような思弁的な規律を、音と音楽をめぐる美学的な実験のなかですでに知らずしらずのうちに受け入れ始めているように見える。この線に沿って、実在的に存在することも存在しないこともありえる音源の幽霊のようなイメージを追いかけながら、私たちの聴取は「認識論的ノイズ」(セシル・マラスピーナ)の境位のうちにますます踏み込んでいくことになるだろう。それゆえ正確に言えば、モノラルβの虚構性を「モノラルズ」の風景は一歩だけ踏み越えていることになる。「モノラルズ」が与える生産的虚構の地平はパノーラルを超えたところにある──レイ・ブラシエがかつて用いた表現を借りれば「存在しないところのもの(that which is not)」としての、仮象としての音の次元との抜き差しならない認識論的なデッドヒートをも巻き込んだ──ハイパーパノーラルとでも呼べるような状況の出現を暗示しているからだ。しかしそれはまだ依然として未来の純粋な可能性に留まっている。私たちは未来における想像可能性の拡張を思弁的かつ美学的に擁護しながらも、首の皮一枚の倫理的配慮から、現在手元にあるモノラルの二つの虚構性、二つの隠喩的図式についての理解を深めることを怠らないようにすべきだろう。「モノラルα:耳マイク……アクースマティック」と「モノラルβ:音スピーカー……パノーラル」という二つの体制が、まるで二つの耳が知覚においてそうするように概念的に交差して、客観的なものの「下(sub-)」にあるという意味でのサブオブジェクティヴ(sub-objective)な想像力の平面を新たに生み出すということも、まったくありえない話ではないのである。モノラルが見る二つの夢は、交差されてもステレオにおいてのようにひとつの現実へと像を結ぶことはなく、むしろ新たにもうひとつの夢を生み出すことになるだろう。私たちはそのようにして生成される数限りない夢の先に、現実そのもの、物質そのものの震える核が(スピーカーのコーンのように)あることを、すでに淡く予感している。

2023年5月3日、東京

Monaural, Sub-objective Fictions

仲山ひふみ / Hifumi Nakayama

批評家。主な寄稿に「「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス」(『ユリイカ』2012年10月号)、「聴くことの絶滅に向かって──レイ・ブラシエ論」(『現代思想』2016年1月号)、「加速主義」(『現代思想』2019年5月臨時増刊号)、「マーク・フィッシャーの思弁的リスニング」(『web版美術手帖』2019年9月5日)、「ポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築──フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへ」(『10+1 website』2019年10月号)、「「リング三部作」と思弁的ホラーの問い」(『文藝』2021年秋号)。また、手売り限定の批評誌『アーギュメンツ#3』(2018年6月)を黒嵜想とともに責任編集。