WHITEHOUSE

JEREMY WOOLSEY

アメリカと「均衡化」の時代について​

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 議事堂乱入事件の日(202116日)に、祖母はMSNBCというチャンネルを一日中見続けていた。レポーターたちは、この不気味な出来事は、歴史的な意味で、真珠湾攻撃やフランス革命(?)などに匹敵すると報道していた。彼らは、乱入事件の運動家と同様に、必死に「歴史感」を生み出そうとしている。しかし、そこに歴史をあまり感じない。むしろ、歴史の蓄積は、無限に近い情報の流れに洗い流されているといったほうが実情に近いのではないだろうか。前述した、とんでもない歴史比喩の濫用はこのことを物語っている。少なくとも、SNSの投稿やテレビを見ている限り、そんな印象が強い。

 本稿では、現代アメリカのさまざまな文化現象を中心に取り上げながら、トランプ政権やその周りの出来事を生み出したメディア環境への考察を試みる。もちろん、筆者は中流層の白人男性なので、「一般的」アメリカ人を代弁するつもりは毛頭ない。できるのは、一人のアメリカ人が見ている状況をなるべく正確に伝えようとすることだけだ。

均衡化とは?
"Walmart" by JeepersMedia is licensed with CC BY 2.0.

トランプ氏が当選して以来、「フェイクニュース」(虚偽報道)という言葉が流行っている。フェイクニュースのせいで、陰謀論も蔓延している、またSNSの普及によって、アメリカ社会の分裂も激しくなっている、としばしば言われる。しかし、これは果たして本当の状況なのか。SNSの普及は分裂を促進しているどころか、むしろすでに存在していた分裂を、「均衡化」させようとしているのではないだろうか。

この「均衡化」という言葉を、メディア論の文脈で初めて使ったのは、評論家·気功師の津村喬だった。全共闘を代表する知識人の一人として、津村は1970年代の冒頭に、明治時代の権力によるメディアの利用に注目をしていた。やや長いのだが、以下、彼の文章を抜粋させてもらう。

 

明治権力の「思想」とはなんだったのか?それは神道の一流派でもなく、他の何でもなく、これらの総体が相互に相殺しつつ均衡化によって秩序を再生産していくその作用そのものである。相対化されるうちに、最も急進的な反体制思想が体制に吸収されて衛生無害、人民にとって有害になっていくという例は自由民権だけではない。(中略)今日では同一の均衡化的統合作用は、主として、「情報産業」によってになわれている。このシステムの中で、あらゆる「主張」「意見」は二重の仕方で剥奪される。要約的に言えば、第一にゲットー化され、第二に均衡化されるのである。1

 

70年代の冒頭までに、新聞とラジオとテレビが統合し、一つの包括的なマスコミのシステムを形成していた。津村が直面したのは、このシステムがニクソンショックやオイルショックに対応すべく、いわゆる「日本型企業社会」の台頭を後押ししようとしていた状況だった。すると、日本の高度成長期への批判の声(それが汚染に導いた、それが無駄な消費を生み出してしまった、等)が逆手に取られ、節約キャンペーンや意見広告(「消費を控えめに!」という広告)として現れてきた。つまり、日本の資本主義制への批判が、資本主義の再編成のために利用されてしまっていた。アメリカでも同じ現象が見られ、それは「人工的否定性」という言葉として知られている。資本主義が内在的批判を通じて、その再編成を実現していったわけだ。ここで注意してほしいのは、この均衡化作用が、秩序の安定を目指しているという点である。

均衡化と現代アメリカ
"Nature VS. abandoned big box store" by Nicholas Eckhart is licensed with CC BY-NC-SA 2.0.

 では、現代アメリカでのSNSの普及はどのように「均衡化」を生み出しているのか。この問題を、ミクロレベル(個人同士の関係)から、マクロレベル(文化全体)にそって考察したい。

  まず初めに取り上げるのは、インターネットの「トロール」(日本語では「荒らし」や「釣り」などの意味)という現象だ。現代社会に潜在するニヒリズムを体現しているトロールは、言いたいことや、伝えたいメッセージなどがない。それどころか、ある種の純粋な否定性を帯びているとすら言える。つまり、相手の気持ちを煽り、侮辱語や人種差別語などの言葉を「あえて」投げかけることで反応させようとひたすら頑張るだけである。そして、被害者がトロールの言葉に対して本気になったり、感情的になったり、もしくは理性を使ってトロールと議論したりすることがよく見られる。つまり、トロールが仕掛けた罠に陥ってしまうのだ。

 しかし、この状況を、津村喬の言葉で考察してみると、まさに、個人(もしくはボット)同士の「均衡化」に他ならない。二つの「意見」が現れるたびにそれが相殺してしまうという結末が生まれるためだ。ここに分裂どころか、むしろ歪んでいる一体化が見られるのではないか。その上に、このトロールと被害者の「出会い」がますますアルゴリズムによって自動化されているし、GAFAのデータ抽出による利益ももたらしている。つまり、この均衡化(「対立する意見」の相殺や炎上など)がアメリカのSNSの独占資本化も加速化させてしまっているのだ。

 個人同士の関係性から、現在のマスコミ(主に新聞とテレビ)とSNSの関係性に目を移してみると、アメリカのマスコミの影響の低下が著しいことに気づく。SNSなしでは営業が成り立たない新聞が多く、アメリカのマスコミもSNSの従属的な立場に置かれているのだ。そのため、売り上げを上げるべく「トロール」や「社会の除け者」(例えば、新反動主義者やIDWなど)の存在を取り上げ、良心がある市民たちの覗き見的好奇心を満たそうとする。しかし、これらのグループを取り上げることで、それをかえって拡大させてしまうという現象もたびたび起きている。

 以前から話題になっていた「オルタナ右翼」(主にネットで活動する右派の運動家(?)たち)という現象はこの情報の消費サイクルを代表している。2016年の選挙以前は、「オルタナ右翼」はごくマイナーで一部の関係者以外にはほとんど知られていなかった。しかし、Politicoなどのサイトが、このグループを取り上げ、それが選挙に甚大な影響を与えているのではないかと煽ったとたん、このグループが一気に顕著になり、活発化してしまった。オルタナ右翼が以前からネット上で様々な活動をしていたという事実はもちろん否定できないのだが、これが多くの新聞やサイトに取り上げられないではここまで活動を進められたとは到底思えない。つまり、リベラルメディアはこの「仮想敵」を作ってから、それと戦ってみせるという自作自演をした。このおかげで、右派サブカルチャーも脚光を浴びつつ成長することができた。ここに利害一致が認められる。

 こういったメディア状況のフィードバック·ループの帰結として、二つの陰謀論がやや違ったタイミングで流通しはじめた。いわゆる「ロシアゲート」と「Qアノン」である。注意してほしいのは、目の前の現実がつまらなすぎる、または辛すぎる時において、人間が陰謀論に走ってしまうということである。陰謀論は簡単に説明できるはずの現象(例えば、アメリカ経済の金融化は多くの人生を壊している、など)をより「面白い」形で反映させてくれる。ある人は自分が賃金抑圧や脱工業化で苦しめられているという「つまらない」現実に直面するというより、自分の苦しみはきっとある秘密結社の策略によるものだと信じ込むことは冒険感を与えてくれるだろう。この冒険感は最終的にとんでもない被害妄想やパラノイアを生み出してしまうにもかかわらず、である。この意味で、陰謀論の構造においては現実逃避的要素と、現実をそのまま反映させているような要素が絶妙に交わっているのだ。そして、ここ30年にアメリカの格差問題に本格的に取り組まなかったという点では、民主党も共和党も陰謀論が生じやすい環境を共に生み出してしまったと言える。

"Target" by JeepersMedia is licensed with CC BY 2.0.

 次に、以上の陰謀論の説明を踏まえ、以前から話題になっている二つの陰謀論、すなわち「Qアノン」と「ロシアゲート」を簡潔に考察しよう。前者は、極右派(の一部分)がトランプの無能力を誤魔化すために作り出したものなのではないかと筆者は考えている。故に、トランプ氏の政策の失敗は彼のせいではなく、彼を阻もうと策略しているリベラルの秘密結社が裏に働いているからだというように、パラノイアがたっぷり含まれているのだ。トランプの支持者らが直面できなかったのは次の事実だ。端的にいうと、トランプ氏は「ポピュリスト」を演じながら、法人税や所得税を激的に減税し、レーガン大統領が行った日米貿易戦争を、中国版に変えただけだ。言い換えれば彼が実際に行った経済政策は皮肉なことに、彼の支持者の期待に反して80年代以降の新自由主義の延長線上にすぎなかった。そこに新しい「ビジョン」はほとんどなかったのだ。しかし、こういった事実を見て見ぬふりしているかのように、彼の支持者らはリベラルの秘密結社が裏に働いているぞと虚しく叫びつづけている。

 他方、リベラル派は、多くのアメリカ人がトランプに投票したことは信じたくなかった(もしくは信じられなかった)。そこで、トランプに投票した人々はロシアの「悪意」的戦略と介入に騙されたという解釈の方向へ、リベラル派は走り始めた。選挙にロシアが介入しようとしていたという事実を認めたとしても、それが果たして選挙に決定的な影響を与えたと言えるのか。民主党がロシアゲートとトランプ政権の関係をしゃにむに追及した挙句、弾劾決議が却下され、逆にQアノンのような陰謀論が生まれる余地を与えることにもなった。筆者の視点からすると、民主党は次の選挙に向けてしっかりと準備していくより、前の選挙の結果をひたすら否定するように努力してきたように見えてしまう。これは民主党の現実逃避だったと言わざるを得ない。

"Former Walmart Trotwood" by Nicholas Eckhart is licensed under CC BY-NC-SA 2.0

 さて、この二つの陰謀論、すなわち「Qアノン」と「ロシアゲート」の相乗効果的意味に注意してほしい。津村喬の言葉で考えると、この二つがSNSやマスコミの中で殺し合いながら、現状の秩序を保つように働いていたのではないか。Qアノン陰謀論は言うまでもなく、批判されるべき右派的パラノイアを原動力にしている。しかし、それをどのように批判すべきなのかというのは、至極難しい問題だ。上から目線でQアノンを批判するだけでは、優越感しか生まれてこないからだ。これは昨今によく見られる「Q アノンってこんなに怖い」「日本では果たしてQアノンは広がっていくのか、広がらないのか」系の記事の夥しさが証明しているだろう。この種の記事はQアノンを野次馬的に見物したい市民たちへの商品提供にすぎず、そこに批判性がほとんど感じられない。つまり、ここに右派的パラノイアとリベラル派の優越感が相殺してしまうだけで何も変わらない。それを本当に批判するならば、その背景にある、経済衰退と人種差別の問題が重なっている構造のほうに重点を置くべきだろう。

均衡化の果てに「文化戦争」の茶番化がある

 ここまで、個人同士の関係からマスコミの構造までについて論じてきたのだが、最後に、「均衡化」の究極例としての「文化戦争」の存在を捉える必要がある。トランプの台頭は、この「文化戦争」にあわせて理解されなければならないためだ。ここで、いわゆる「文化戦争」を詳しくは説明できないが、議論を展開するために簡潔に紹介しておこう。2

 アメリカでは60年代の公民権運動や学生運動などに対して、1970年代以降にさまざまな反動的動きが出始めた。例えば、公民権運動がもたらした「差別撤廃に向けたバス通学」や、学校の世俗的な教育教材などに反旗を翻したのは、原理主義クリスチャンたちである。その代表的人物は、レーガン元大統領の台頭を支持したジェリー·ファルエルだった。同時代に、新保守主義者たちは、公民権運動を契機に先住民や黒人などのアメリカのマイノリティが経験してきた苦しみを取り上げるべく再編成されたアメリカの歴史教科書は自虐的すぎ、アメリカの国家·共同体的連帯感を損なっているのではないかと危惧し始めていた。その上に、60年代の反体制的カウンターカルチャーは子供遊びのようなもので、子育てや就職などの責任から逃げるための口実にすぎないと、新保守主義のイデオローグらは痛烈に批判した。よく言われるのが、この二つのグループ(原理主義クリスチャンらと新保守主義ら)は、白人ブルーカラー階級の抱えていたぼんやりとした経済的不安·人種差別的な態度に、明確な言葉を与え、それを正当化したということだ。

"Target" by JeepersMedia is licensed with CC BY 2.0.

 80年代以降、こういった原理主義クリスチャンたちと新保守主義者で構成されたグループと、芸術家を含むリベラル派のグループは、積極的格差是正措置や教科書などの政治問題について激しく議論を交わしてきたのだが、その間に、アメリカの「文化戦争」の構造が変化したことにも注目したい。アンジェラ·ネーグル(Angela Nagle)という批評家によると、2010年以降のSNSの普及と共に反人種差別運動やフェミニズム運動の「中道派」の理念やスタイルなどがますます官僚制と資本主義制度に利用され、新自由主義のイデオロギーとして機能し始めた。そして、この新左翼運動の(部分的な)制度化は右派や新保守主義らにとっては便宜的に体制側を象徴するようになった。3 つまり、以前に反·反体制だったはずの右派·新保守主義者はどんどん、反体制派だと自認するようになっている。

 この「反体制化」した保守派は、官僚制や大企業が利用している「ポリティカル·コレクトネス」と敵対している。彼·彼女らが、自分の発言を抑圧しようとする(ように感じている)官僚や企業と延々戦っていくだろう。そのイデオロギーを押し付けようとする「エリート派」とも。言い換えれば、彼·彼女らは60年代のカウンターカルチャーが掲げた「表現の自由」を、裏返しになった形で掲げるようになっている。こうしてみると、文化戦争自体は茶番になってしまっていると言わざるをえない。その元々の構造は完全に逆転し、本来の「サイレント·マジョリティ」としての保守派が自分のことを、迫害されているマイノリティーとして認識するようになっているからだ。

"GameStop near ShopRite" by Generic Brand Productions is licensed with CC BY-SA 2.0.

 こう考えると、文化戦争の茶番化は均衡化の勝利を意味しているのではないだろうか。現状維持のために、均衡化作用は相殺する二極化したグループの均衡化が必須だが、それぞれの内容はなんでもいい。そして、以上に紹介した、「相対化されるうちに、最も急進的な反体制思想が体制に吸収されて衛生無害、人民にとって有害になっていく」という津村喬の見解に沿って現代アメリカを考察するときには、本来大きな影響力と可能性を持ったはずの「反体制」、すなわちカウンタカルチャーの理想は有害になっていることがわかる。リベラル派と保守派が「だれが真に反体制か」と戦い合っている中、体制(つまりここ40年間で「新自由主義革命」で財産や株価の上昇により潤った階級)がその背景に隠れてしまうわけだ。アメリカの問題は文化を論じるだけで語り尽くせるのではない。全ての議論を文化というレベルに集中させると、経済のありようは無視されかねない。これは均衡化の勝利に他ならない。

むすびにかえて

 以上、津村喬の「均衡化」という概念を補助線としながら、アメリカの文化を様々な面から考察してみた。この「均衡化」という概念はあまりにも曖昧なため、なかなか腑に落ちないかもしれない。しかし、情報飽和が大きな問題になっている現在においては、このややぼやけた概念は現代のメディア状況を理解するためには逆に役に立つのではないかと、筆者は考えている。SNSの時代に、無限に続く、対立している意見でいちいち気を散らされることなく、秩序そのものを再生させる構造に目を向けなければならないからだ。

 もちろん、津村喬が「均衡化」を理論化しようとした70年代の冒頭と、現代アメリカの状況はまったく違っている。津村喬が新自由主義の始まりを予言していたのに対して、現在、その経済体制が終わろうとしているのだ(もちろん新自由主義が死んだとは言えないのだが)。4 ここに均衡化作用では隠蔽できない、ある現実にもぶつかる。それは多くの先進国のように、無限金融緩和政策を行えば行うほど、アメリカの実物経済が空洞化してしまっているということだ。ゼロ金利政策にすがり、借金返済にひたすら集中している、いわゆるソンビ企業が爆発的に増えている。対して、GAFAはとんでもない利潤を内部留保してしまっている。コロナ禍の最中に、平均株価が史上最高値をつけているという事実ほど、現代アメリカ(と世界的資本主義)の不条理さを象徴していることがあるだろうか。トランプ現象の再現(もしくはトランプより才能のある政治家の台頭)を防ぐべく、人種差別問題に取り組みながら、ただの富の再分配より抜本的な経済の再編成へのビジョンを左派が提示しなければならない。経済衰退と脱工業化による苦しみが、文化戦争的煙幕で誤魔化せる時代は現在終わろうとしているからである。

1. 津村喬、「メディア論から情報環境学へ」、『メディアの政治』、晶文社、1974、292~293頁。この文章について教えてくださった、Alexander Zahlten氏に感謝している。

2.「文化戦争」の概念の歴史に関して、Andrew HartmanのA War for the Soul of America: A History of the Culture Wars (University of Chicago Press, 2016)は詳しい。

3.Angela Nagle, Kill All Normies, Zero Books, 2017を参考せよ。また、ネーグルの理論には様々な問題点があると言わざるをえない。例えば、それが、経済の構造変化の影響を過小評価しているし、右派の変身を「ポリコレ」派のせいにし過ぎているからだ。なお、彼女の昨今の活動は反移民的·一国主義的な面もあるので警戒されるべきだろう。

4.バイデン政権のインフラ投資計画が、「新自由主義」の終焉を意味しているという経済学者はたびたび見られるのだが、新自由主義への路線転換を生み出した、資本の過剰蓄積と利潤率の低下が改めて問題化している現在から見ると、新自由主義が終わったというのは早計なのではないだろうかと筆者は考えている。

Jeremy Woolsey (ジェレミー・ウールズィー)

1991年シアトル生まれ。評論家。ハーバード大学の東アジア研究科の博士課程に在籍。主に70年代以降の日本の雑誌文化やジャーナリズムなどを研究している。趣味はギターと散歩。 

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