この小説に登場する実在の人物はすべて架空の人物であり架空の人物だけが実在の人物である
「タイム・シェルター」ゲオルギ・ゴスポディノフ
架空の、それも私や誰もが知らない場所にある架空の、また、私や誰もが見ていない物や物の内に秘められた生きていない架空の。ある時点において触れることを許されていた特別な時空における架空の。現実が私に影響を与える物だけだとしたら、私に影響を与えない架空の。しばらく開けていない棚を開けた時に香る不必要な匂いに誘われる寝ぼけた頭。架空の。
正体を掴めない、いや、掴もうと思うと掴めた気になってしまう鑑賞行為自体が持つ欠陥によって、その正体が見えづらくなってしまう作家はたくさんいる。鑑賞だけじゃない。言葉の問題もある。私たちが素直に作品を見つめようとした時には、既に言葉化は始まって終わっている。それらの半ば自動化された反応を拒否するように、作品があったかもしれないようにしてある、いる。しーぼつさんの作品や作家像には架空の実在感がある。
以前、それももう2021年で、5年前になったわけだけど、WHITEHOUSEでしーぼつさんにパフォーマンスをしてもらったことがあった。その時に、しーぼつさんの持つ「根源的破片性」について考えていた。生まれた時から破片である破片について。しーぼつさんの絵画や音楽、短歌、パフォーマンスの持っている記号化を否定するような現れと、彼の生き様に対応させる言葉として「破片」のような不在感や欠損感をあてて考えていた。しーぼつさんにWHITEHOUSEで今度は個展をやってもらう事になって、あらためてこのことを考えている。絵画や音楽、短歌、パフォーマンスの神話作用によって、一時的に成立しているように思えるどこか刹那的な輝きを持つしーぼつさんの作品群に、こうやってまた言葉を与えて考えていく事の不誠実さを感じながらも。
しーぼつさんの絵画を眺めてみる。B5の家計簿の上に書き込まれた無数の破片たちを眺めてみる。キャラクターのようなものイラストやメモたち。予定。聞いた音楽。しーぼつさんの生活のようなものがあらゆるメタファーを回避しながら文字通りびっしりと刻まれている。この紙一枚を眺めているとしーぼつさんという人間がわかったような気になってくる。しーぼつさんの絵画を眺めてみる。B5の家計簿の上に書き込まれた無数の破片たちを眺めてみる。キャラクターのようなものイラストやメモたち。予定。聞いた音楽。しーぼつさんの生活のようなものがあらゆるメタファーを回避しながら文字通りびっしりと刻まれている。この紙一枚を眺めているとしーぼつさんという人間がわからなくなってくる。しーぼつさんの絵画を眺めてみる。B5の家計簿の上に書き込まれた無数の破片たちを眺めてみる。キャラクターのようなものイラストやメモたち。予定。聞いた音楽。しーぼつさんの生活のようなものがあらゆるメタファーを回避しながら文字通りびっしりと刻まれている。この紙一枚を眺めているとしーぼつさんという人間はいないんじゃないかと思えてくる。
一枚のなかに圧縮された個人の生活の破片(それも破片で構成されている)を鑑賞者である私たちが、ある連続性においてそれを捉えようとする。そのような、誰かの日記を通読する事で達成される連続性や持続が、しーぼつさんの作品から到来することは無い。言葉で捉えようとすると言葉によって挫かれ、意味を見ようとするとマッスによって呆然としてしまう。日記という文体が持っている明日の書き手への信頼感がしーぼつさんの作品からはあらかじめ失われている。明日や昨日にはもう書かれていないんじゃないかという切断された日記。その作者としてのしーぼつさんの持つふわふわとした架空の実在感。河原温のDate Paintingがある種作者と明日と昨日への信頼から成り立っているとして、その作者が架空の実在しかなかったら、私たちが見ている目の前の作品は存在しない事になるのか?あるのに?しーぼつさんは生きながら絵を描いている。けれどその全体は絵の中には必ず現れない。
しーぼつさんの「ギャルちょれ~~~~~~!!」を聴いてみる(以前、それももう2013年で、13年前になったわけだけど、あの時の衝撃は今も身体のどこかに切り傷のように刻まれている)。冒頭からこもった金属質なビートと朗読のようなものが繰り返される。少し静かになったと思ったら終わる。歪んで鈍ったビートが始まる。断片的な声?の後に少しビートが複雑になる。徐々に静かになる。終わる。虫が狭い箱の中で這いつくばるような音が鳴る。虫たちのリズムが同調して音楽的になってきたように感じる。不整脈のようなビートに緩く変わる。終わる。車が通り過ぎるような音と、金属質なビート、控えめなシンセ。時々音楽が始まる予感がする。うねるベースが始まり他が消えて、ベースも消える。機械のような朗読と不穏な物音。何かの音がずっとしてる。終わりかける。終わる。低く歪んだドローンとその隙間から時折漏れ出すピーキーなメロディ。チューニングの外れたAMで流れるピアノのような断片。ゴロゴロした低音。終わった。回転するこもったシンセと変な音、変な声、朗読?手拍子のような軽いリズムの後に調子の良いリズム、がすぐ終わった。終わった!ぶっ壊れたおもちゃたちの合唱か、ビートか、音が少なくなる。隙間がある。ぶつぶつ。昔?ぶつぶつがすごい。ビョンビョン。終わった。ディレイのフィードバックの後に左右に振られたインダストリアルノイズ。ピークアンプ感。てか、ずっと何が鳴ってるんだろう、朗読が始まる。朗読でいいのか?思い出したように音楽になる。フィードバックでした。徐々に静かになったと思ったらがちゃがちゃと、終わる。シンセのアルペジオとテンポのいいドラム、少し鈍ってる。本当のテンポのいいドラムがやってくる。他は戻っていく。テンポだけが残って、なんか他もまだいる。ゆっくり終わる。蝿が演奏するジャジーなフレーズと無関係なパーカッション、ヒスノイズ、また何かわからないものが鳴っている。火山。徐々に全体が飲まれていく。ガー。パーカッションが取り残されて、ディレイ、終わる。大きな金属板を揺らしたような音とビーム!!!ノリノリ。不調なラジオ?朗読?リフレインしてる。お囃子?303的なアルペジオ。また予感がする。きっと挫かれる。一瞬のソロベース、音楽が始まる。朗読はリフレインから逃れて歌になる。明日同じように聴けるとは限らない。ニューウェイヴだこれは。ベースと箒。終わった。テンポのいいFMシンセ感。じゅくじゅくとキレるようなシンセ。キレキレになっていってキレキレのソロから、ノイジーに。キレキレ、じゅくじゅく、シャリシャリでパス回しが繰り返される。ソロへ。リバーブで解決。暗いニューエイジ、浮遊感。モノシンセ、信号のように、鳴る。モノシンセソロ、moonの洞窟みたいな。煌びやかなシンセ。美しさが音楽をもたらさない。ごとごとと物音。少しジャギったシンセ。終わる。ゴロゴロとしたビートとざっざっ。足音にも聞こえる。たまにやってくる。静かになって終わる。
最近はピン芸を始めたしーぼつさん。しーぼつさんの根っこにはいつも言葉が溜まっている。私たちが言葉と呼んでいるもの以外の言葉を持った人は言葉に傷つけられもするんだと思う。言葉。そんな言葉たちの吐き出す場所として今はピン芸もある。ピン芸を見ると、いや、短歌もパフォーマンスもそうだけど、私たちの言葉のパロディを言葉として扱っているように思える。言葉を破片化し架空の言葉にする事でしーぼつさんが扱いやすいように変えてしまう。てか、意味なんて愚にもつかないものに言葉を預ける必要もない。言葉への信頼の形としてしーぼつさんの身体はあるように思う。それは少し復讐にも似ていると思う。
WHITEHOUSEでは、5月15日(金)から6月14日(日)まで、しーぼつ a.k.a C孛 a.k.a しー没 a.k.a Constellation Botsu a.k.a 概ねたか個展「火、通ってる〜〜〜〜?」を開催します。膨大な作品群を5月の陽気と共にご高覧いただけたらと思います。
少し訂正すると、この文章の中に出てくるしーぼつさんたちのどれかはC孛で、どれかはしー没で、どれかはConstellation Botsuだし、概ねたかだし、どれかはしーぼつ a.k.a C孛 a.k.a しー没 a.k.a Constellation Botsu a.k.a 概ねたかでした。
そしてこの文章は「火、通ってる〜〜〜〜?」とはあまり関係がないのですが。
涌井智仁